秋月院の由来
天正元年酉年(1573)の大地震で大木頼母之助夫妻は二人とも押しつぶされて亡くなってしまいました。 その子、長男の主馬之助は、やむをえない事と悲しみ嘆いて、世を捨てて父母の遺骨と父の守り本尊の釈迦如来像を背負って諸国を巡拝して両親の遺骨を高野山に納めて、自身は願いをたてて出家してこの地に住み着いていました
小田原北条氏の家臣の片山弥兵衛は、息子の図書具冶とともに天正18年(1590)の小田原城が落城したときの戦いに出陣し、片山親子は平村(現在の宮前区平)に無事に帰り、図書具冶は下菅生村長沢(現在の宮前区菅生)に移住し、文禄年間に亡くなり、その墓は出家者の庵住まいの辺りに葬り、その後宗覚房という僧の時に図書具冶夫婦の戒名から秋月院となりました。
寛永年間に本尊とも焼失してしまいました。
正保年間に(1644~48)に再建され、再び火災で焼失しました。年代は不明ですが、再建された後、再び明治年間に焼けています。
現在の本堂は昭和50年に建立されました。
御本尊様は、松平土佐太守公の姫が所持していました准胝観世音菩薩像を元禄12年3月21日に拝請して當院の御本尊様になりました。
大河ドラマの「篤姫」のワンシーンで篤姫が嫁ぐ時に母が仏様を授けるシーンがありました。その仏様には母の子を思う気持ちがこめられています。当山のご本尊様も松平土佐太守公の姫様の母の思いがこめられているでしょう。